京都センターには、滋賀センターの北島教師、
企業研修部署を担当していた江畑教師が駆けつけてくれ、
妻を含め4人で、自分たちでできることを話し合った。
まず、関西で大きなグループ実習を行うことを決めた。
その動きは、「なんとかせな!日本!!という形で
現在まで引き継がれており、うれしい限りである。
初めて東北後に赴いたのは、震災から1か月後の
4月8日、私と妻は夜行バスを乗り継ぎ、開通したばかりの
東北自動車道を北へと向かった。
道は大きく隆起してデコボコ、自衛隊や公的支援の車が
ほとんどで、一般車の数はほんの少しだった記憶がある。
高速道路から見る家々は、ほとんどの家が青いブルーシートで
覆われていた。
仙台市に入り、泊まれるホテルを探した。
やっと一部屋だけ空いているところを見つけることができた。
行ってみると、フロントの前は天井から水がたれ続けていて、
止まっている人は、全国から招集された水道、ガスの復旧作業員
ばかりがであった。たぶん空き部屋が一室あったこと自体が
自然の支援いがいのなにものでもない。
これから、まさに自然の支援という言葉でしか表現できない
奇跡中の軌跡の連続が始まるのである。
私と妻は、マハリシ先生が常に同行して、支えられて、
ただ自然に動かされて動いているだけの感覚を
被災地支援が終わる前感じ続けるのであった。
さて、最初の活動であるが、
市役所や大学、病院など手当たり次第に訪れ、
瞑想の教師としてできることを必死に探した。
しかし、地震から一か月後に、瞑想を受け入れてくれるところは
皆無であった。
超越瞑想指導には、会場が必要であり、しかも数日を要する。
考えた末、そこで、安価で借りることのできる拠点を決めて
出直してくることを選択した。
この拠点探しが、きわめて困難な作業だった。
ほとんどのアパートやマンションは、倒壊しかけていて
ほんの少数の住むことのできる棟はすべて避難者に
優先的に入居が決まっていて、借りることができる部屋自体が
まったく無いのである。
それでもあきらめずに探し続けたところ、仙台市の北部に
比較的揺れが少なく、インフラも大きなダメージを受けていない
地区があることがわかり、さっそく向かった。
場所は、地下鉄旭ヶ丘駅。地下鉄もまだ復旧しておらず、
臨時バスに乗り、さっそく駅近くの不動産会社の看板を
探しながら、駅周辺の営業店を探しまわったところ
駅からほど近いところにアベニュー不動産という名の看板を
見つけた。
飛び込みで、空いている部屋がないか聞いたところ、社長の
阿部さんは、地元に密着して、地震から一か月間休むことなく
ボランティア活動をしている方だった。
事情を話すと、話は早かった。駅から近く、家賃3万5千円。
ボランティア用の軽自動車も数台購入している社長だったので
新しくはなかったがよく走るワゴンRとその駐車場代を含め
一か月の家賃、4万2千円で契約して、支援活動の拠点を
定めることができた。
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