東京港区の増上寺の三門を入ると、本殿に向かった中庭に石碑が二つあります。

その一つに、この句が彫られています。

月影の至らぬ里は無かれども

 眺むる人の心にぞ住む

法然上人の詩です。

穏やかな月の光は、あらゆる山里に同じ慈しみの光を届けているのですが、見る人の心があれやこれやに囚われて余裕がなければ、その光の恩恵は享受することができません。

 

マハリシ先生は、ヒマラヤから降りてこられた時、次のように話されました。

インドの古くからの文献には、人生は至福であると書かれているのに、世の中には問題や苦しみがはびこっているように見えるのはなぜなのか。そ

れはちょうど、水の中の魚が、水がない、水が無いと騒いているのと同じようなものだと言ったのです。

 

子供が庭で遊んでいる時に、誰かが、「お母さんは家にいないよ」とささやいたとします。

子供は途端に泣き出してしまうでしょう。

お母さんが家にいる、つまり、純粋意識の絶対的安心感との繋がりを忘れてしまうと、人は部分に取り込まれ、問題が生じ始めます。

それは単に理知の誤りによるのです。

 

話は急に京都に跳ぶのですが、

湯川秀樹博士のお墓が、京都の知恩院にあることをご存知ですか?

知恩院は浄土宗の総本山ですから、民間人がお墓を建てることはできません。

しかし博士のたっての願いで建立が許されたそうです。

それは、山本空外上人のお墓と背中合わせになっています。

空外上人を知る人は少ないのですが、東大を首席で卒業し、哲学者で物理学者でもあり、生涯を核兵器をなくし、平和な世界をめざす『世界連邦』構想を説き続けられた偉大な宗教家です。

上人の説かれた「無二的人間の形成」の、無二とは主体と客体、自他の対立を超えて生きる生き方をさします。

 

私達は宗教に偏り過ぎることなく、できるだけ科学的な手法で真理を知れたらと思います。

物理学が進歩し、宇宙の根源を解き明かしつつある今だからこそ、意識と物質の関係を明らかにできる時が来たのではないでしょうか。

 

実はインドには嫌というほど厳密な論理学もあり、さらに各種理論と実践が残されているのですが、長い時の流れの中で、己の意識の究極の本源である純粋意識を体験する方法が著しく難しくなっていました。

マハリシは古代の叡智を整理し、現代人が利用できる実践的で包括的な知識として復活させましたが、その核となる部分が「超越瞑想」です。

日があるうちに干し草を作りましょう。

悠央

ちなみに我が家は真言宗です。