執着を捨て

 成功や失敗の中にも平静を保ち

 ヨーガに立脚して行動せよ

 富の征服者よ

 なぜなら

 心の平静がヨーガと言われるから

 

この言葉は超越瞑想を実践している人ならだれでもご存知と思います。

バガヴァッド・ギーター2章48節の言葉です。

マハリシのバガヴァット・ギーターの解説では次のように記されています。

「ヨーガに立脚して」とは、宇宙意識に立脚してという意味です。

ヨーガ、すなわち神聖な知性との合一は、心が超越意識を得るときに始まります。

そして、この超越的な至福意識、神聖なる「存在」が心にしっかりと根を下ろし、心がどんな状態にあるときにも、目覚めていても眠っていても「存在」の状態に確立したままであるときに完成します。

主はこの詩節の初めに「ヨーガに立脚して」と言っていますが、それはこのような完全な悟りの状態を指しています。

この詩節の後半では、「ヨーガ」は「心の平静」であるとして、行動との関連において定義づけています。

この平静のとれた心の状態は、至福意識とともにもたらされる永遠の満足の結果生じるものです。

たいていの注釈者たちは誤解してきたのですが、損得の中で心の平静を保つような気分を装ったとしても、この状態は決して得られません。

 

随処作主 立処皆真

 禅宗では日本に上の言葉で伝えられました。

「随処に主となれば立処みな真(まこと)なり」と読みます。

禅宗のサイトの解説でも、

『「随処」は、日常生活における何時・如何なる時や場所などのことをいいます。

「主」とは、他人にも自分にも束縛されることのない自在無礙の人のことで、何ものにもとらわれることのない真に解脱した人をいいます。

「立処」とは、今現在立っている処、日々の生活の瞬間・瞬間の存在の仕方をいいます。

「真」とは真実のことで、我々が住む世界は、常に刹那生滅を繰り返し変化します。

仏教ではその在り方を真実として捉えます。

「諸法実相」ともいい、真実世界は我々の思考と関係なしに顕現していることをいいます。

現象世界の真実に我々の思考を融合させ、何時・如何なる場所であっても、本来仏としての主体性を失わず、自在無礙の生き方ができれば、日々が真実そのものの生き方となり、生きるということが、真実を開顕して生きることになる、というものです。』とあります。

 

京都のJC(青年会議所)の方々の名刺には「あらゆるところ主となせ」と印刷されています。

ヴェーダと仏教の真理が、はるばる日本まで伝わり、JCの方々のモットーとして今を生きているって、すばらしいですね。

悠央