さてそれではここで本題である、シューランガマースートラについて見ていきたいと思います。先ほどお話しましたようにこのシューランガマースートラは最高の瞑想法はなんであるか、ということに関する仏陀の教えが含まれています。仏陀が彼とともにいる25人の最も優れた菩薩および阿羅漢たちとともに何が最高の手法であるのかを話しています。サマーディ、超越意識を体験し悟りの状態へと高まっていくことを可能にする最高の手法とは何かを説いています。

 

こちらがシューランガマースートラの文献です。この文献は実際のところチャーン仏教と呼ばれる中国の仏教に由来するものです。ですがこの文献に書かれているのは2500年以上前に仏陀が話した内容です。それがパラミティと呼ばれるインドの偉大なる大師によって中国語に翻訳されました。そしてこの文献はチャーン仏教もしくは中国仏教の伝統における最も重要な文献の一つとなりました。

 

このスートラにおいて仏陀は彼の愛弟子であるアーナンダに教えを与えています。このアーナンダは非常に献身的な仏陀の弟子でした。アーナンダは悟りを得るための方法に関する教えを受けたいと考えました。そこで彼は謙虚な態度で仏陀に教えを請いました。悟りとは何であり、それを実現するにはどうしたらよいかを尋ねました。

 

そこでまず最初に仏陀はアーナンダに対し、悟りの状態における究極の実在について説明しました。シューランガマースートラに記されているその仏陀の説明を要約すると次のようになります。仏陀は次のように述べました。「この統一性そのものはその本質上枠がない。それは枠がなく、それは単一である。小さなものの中に宿っており、また大きなものの中にもある。大きなものの中にあり、小さなものの中にもある。それはすべてに浸透しており、最も微細なものの中にも存在するがその中には無限の世界すべてが含まれている。最も微細な粒子の中に含まれているが、巨大な法の車輪を回転させている。知覚可能な現象すべてを担っており、神聖なる知識を携えている。」

 

これが究極の実在に関する仏陀の説明です。おそらくマハリシチャネルをご覧になっている方や、マハリシ公開大学の講座を受講されていらっしゃる方々は、これら仏陀の説明がマハリシが日々世界に対し説明していることと全く同じであると感じていらっしゃることと思います。

 

例えば仏陀は統一性は小さなものの中にあり、また大きなものの中にもある。大きなものの中にあり、また小さなものの中にある。このように説明していますが、マハリシもこのことをウパニシャッドの詩節を引用して、アノーラニヤーンマハトーマヒヤーンと常に説明しています。最も小さなものより小さなものは最も大きなものより大きい。

 

 

仏陀はそれがすべてに浸透している。最も微細なものの中にも存在すると述べていますが、これはマハリシがよく引用する素晴らしい詩節を思い起こさせてくれます。”アートマイヴェーダンサルバン サルバンカルビダンブラフム”つまりすべてがブラフム、統一性、総合性であるということです。宇宙に存在するすべて、微細な粒子にいたるすべてがブラフムです。

 

そして仏陀の言う法の車輪とはヴェーダ、総合的自然法です。それが被造界のあらゆる部分に含まれています。このことを仏陀およびマハリシが全く同じように説明しています。彼らは至高の悟りを得た状態における、自らのその共通の体験からそのように説明しています。彼らが生きているレベルはアハンブラフマースミ「我は総合性なり」という状態です。

 

さてアーナンダはこの仏陀による説明を喜びました。ですが彼はその説明を聞くだけでは充分ではないと感じました。その現実について知的に理解するだけでは充分ではないと感じました。彼はその体験が必要であると感じました。そこでアーナンダは次のように述べました。「私は仏陀による深遠な説明をお聞きしました。ですが私はまだ目覚めを得てはいません。ですからどうか究極の手法について教えてください。尊主仏陀が体験していたことを実際に体験するための究極の手法について教えてください。」このように述べました。

 

そこで仏陀はこのアーナンダからの質問を受け入れ、悟りの状態へと高まる為の究極の方法とは何であるのかに関する問答を始めました。仏陀はそこにいた25人の弟子たち、菩薩および阿羅漢たちに対し尋ねました。悟りという至高の目覚めを得るために彼らが用いた手法について説明するように求めました。仏陀は次のように弟子たちに述べました。「私はあなた方菩薩および阿羅漢に対し尋ねたいと思います。私が与えたダルマを実践しつづけ、探究や疑問の余地のない最高の状態を実現したあなた方に尋ねたいと思います。あなた方が心を発達させ、悟りという最高の目覚めを実現した際に、その完全性を実現する上で最も優れた手法はなんであったでしょうか。あなた方はどのような手法によってサマーディの状態へと到達したのでしょうか。」

 

この問いに対し返ってきたのは24の全く異なった答えでした。彼らはサマーディの状態へと至るための様々な手法に関して六つの知覚対象、五つの感覚器官、六つの意識状態、七つの元素といったものを通じた手法について説明しました。24人それぞれが違った手法について説明しました。合計で24種類の異なった手法が説明されました。そして最後に25番目の手法です。この第25番目の手法はアバロケーティシュバ(観音菩薩と呼ばれる優れた菩薩)によって説明されました。

 

彼は次のように説明しました。「私はこの手法をはるか昔に学びました。」ここで彼が明確にしようとしているのは、これから説明しようとしている、彼がサマーディを実現するために用いた手法の起源は、ガンジス川の砂粒の数と同じくらい数え切れないほどはるか昔にさかのぼるということです。その当時仏陀はその同じアバロケーティシュバという名前の人物として世界に現れていました。「私が彼と一緒にいたとき、私は彼からサマーディへといたるための教えを受けました。それは聴覚を通じて行う瞑想の実践です。」

 

アバロケーティシュバはさらに次のように説明を続けました。「まず最初に聴覚を瞑想の流れへと向けさせます。聴覚がその対照から引き離されます。そして音と流れへの入り口の両方が溶け合い、騒がしさと静けさの両方が全く存在しなくなります。段階的に聴覚とその対象の両方が完全に消えて無くなります。ですがこれらが消えてなくなっても私はその過程を止めませんでした。気づきの意識そのものが存在しないということを認知しました。主体と客体の両方が無へと消えていきました。そして気づきの意識にはすべてが含まれていました。さらに無の状態およびその対象が消えてなくなり、創造および消失の両方が消えてなくなり、ニルヴァーナの状態へといたる道が現れてきました。」

 

さらに彼は次のように説明を続けました。「私は突然世俗的なものと世俗的でないものとその両方を飛び越え、すべてを照らすまばゆい光があらゆる方向に浸透しているのを認識した。そして私は自らの気づきの意識が、深遠な悟りを得た心と同調していることに気づいた。つまり全宇宙を管理している宇宙的な心、宇宙的な知性と同調しているのに気づいた。また私は生きとし生けるものに対する深い憐れみを感じ、被造界の生物すべてに対する深い同情を感じました。またさらに彼は悟りを望む人、悟りの状態を実現しそれを楽しむことを望む人々にとって必要なことは、この技術を人々に教えることであると述べています。それによって悟りの状態へと高まる機会が得られます。」

 

アバロケーティシュバはこのように説明しました。サマーディを実現するために自分が用いた瞑想法についてそのように説明しました。彼は25人の弟子たちのうちの一番最後、25番目にそれを話しました。

 

ここで再び強調したい点は、この彼の技術ははるか昔から長い時の回廊を通じて、古代から存在してきた技術であるということです。彼はこの技術をその古代の時代に存在した仏陀から学び、この技術に熟達しました。聴覚を通じてその源へとたどっていくことによって、あの普遍的な場を体験する技術、サマーディ、ニルヴァーナを体験する技術の専門家となりました。彼はこの技術に熟達していた為、アバロケーティシュバという名前を授かりました。

 

また彼は次のように述べていました。「聴覚を逆にたどっていくと音が完全に消えてなくなり、すべての聴覚の対象が消えて無くなる。そして実践者はあらゆる枠から解放され、その人を拘束するものはもはや存在しない。そして次に起こるのは主体と客体の両方が完全に消えてなくなるということです。そして悪意に満ちた者達の怒りや憎しみが消えて無くなります。」

 

さて次に仏陀が最終的にどのような結論に至ったのかをお話する前に、一つ強調しておきたい点はこのアバロケーティシュバが説明していたことはまさに超越瞑想そのものであるということです。マハリシの著書である、存在の科学と生きる技術を読んで見ますとこのことが非常にはっきりと解ります。この著書の中でマハリシは超越瞑想の主要な原理について説明しています。マハリシは数多くの方法によって実際に超越することができると説明しています。例えば五感のどれを通しても超越することができます。聴覚を通して超越することもできれば、触覚や視覚、味覚や嗅覚を通して超越することができます。そしてまた他の方法によっても超越することができます。このように超越を可能にする方法はいくらでもあります。

 

ですが最も単純で、最も実際的で、人々が容易に学び実践できる方法、それは想念を扱うということです。想念とはつまり音です。その音を徐々により微かに、そしてさらに微かに体験していき、そして最終的にはその音の最も微細な状態をも超越します。そして意識がその内側において完全に目覚めた状態、完全に静かな状態へといたります。これが純粋な知るものの状態です。対象はもはや存在しません。体験すべき音はもうありません。その人は純粋な状態にある意識のみを体験します。超越状態にある意識を体験します。その状態においては主体と客体が単一の枠のない意識へと溶け込んでいます。これがサマーディの体験です。そしてこれがシューランガマースートラにおいて記されている、アバロケーティシュバが説明していたことです。

 

この超越瞑想において用いられる音について、マハリシはこの音は基本的に言葉のより微かな状態であると説明しています。そして言葉は音です。ですから皆さんが考える時、基本的にそれは音のより微かな状態です。そしてそれは聴覚器官のより微かな状態を生み出します。マハリシは存在の科学と生きる技術の中で考えることそのものは言葉のより微かな状態です。私たちが話すとき私たちの言葉は耳で聞くことができます。ですが私たちが話さないときその言葉を聴覚器官で聞くことはできません。このことから想念はより微細な状態にある音であると考えることができます。

 

そこで超越瞑想が行うことは、このより微細な状態にある音、すなわち想念を扱い、それを体験しその音のより微細なレベルからさらに微細なレベルへと段階的に進んでいき、最終的には音を超越して超越的な純粋意識を体験します。これはアバロケーティシュバが説明していたのと全く同じです。聴覚器官を内側へと向け、音のより微細なレベルを体験していきます。そして超越敵領域においてすべての音の源を体験します。

 

ではその手法をいかにして習得するのでしょうか。七つの段階をおって簡単に学ぶことができます。マハリシは七つのステップと呼ばれる、この技術を習得する為の1週間のコースを設定しています。このマハリシが提供しているプログラムによって仏陀の時代にアバロケーティシュバが教えていたその手法を学ぶことができます。

 

この技術においては心の自然な傾向を活用します。心はより魅力的なものへ、より大きな喜びをもたらすものへと向かっていきます。思考の過程のより微細なレベル、このより微細な、より深いレベルはより魅力的です。そこで超越瞑想が行うのはマハリシが述べていますように、ただ単に心を内側へと向け後はそのまま向かわせます。心は自動的により魅力的なより深いレベル、より微細なレベルへと向かっていき、より微かな音、より微かな想念を体験していきます。そして最終的には至福そのものの領域へといたります。想念の源である超越意識へといたります。

 

このようにこの過程全体は全く努力が要らず、自動的で自然です。これは集中法とは全く正反対です。集中することはこの過程の妨げとなります。超越瞑想法の指導においては全く努力の要らないそのメカニクスについて学び、内側へと方向付けを行い、後はただそのまま内側へと向かわせます。これはちょうど水の中に飛び込むようなものです。水面へと方向を定めれば後は重力に従って自動的に水の中へと向かうことができます。

 

超越瞑想においてもこれと同様の事を行います。この手法はまさにアバロケーティシュバがその時代において教えていた技術であり、また彼が仏陀に対し説明していた自分自身がサマーディ、ニルヴァーナを体験する為に用いた技術、太古の昔から存在している技術です。これは非常に興味深い点です。マハリシが過去50年間に渡って全世界において教えつづけているのと全く同じ技術が、2500年以上も前にこの偉大なる菩薩によって教えられていたのです。

つづく