PHP出版『超瞑想法TMの奇跡』より

小川一海(日鉄企業常務取締役)

1981年の12月だった。

スイスの大学から、日本に派遣されているドイツ人講師の訪問を受けた。

当時、従業員7万人ほどの企業で能力開発を担当していた私は、さまざまな教育技法や、講演会の売り込みに辟易していたので、こんども体良くことわるつもりにしていた。

しかし、会っていみると、雰囲気が違うのである。

セールスに強引なところが、まったくない。

アメリカや西欧での、豊富な事例をもとに、医師と心理学者・生理学者を動員して、緻密な解析を試みている。

どうやら本物らしいと、同席した部下とともに真剣に耳をかたむける。

正午ちかくなったので、お昼を誘うと、

「自分は、食べても食べなくてもよい」

と、のたまう。

不思議な人種に出会ったものだと驚く反面、遠慮しているのではと、再度すすめる。

案内したテンプラ屋で、彼は、タマネギ・ピーマンなどを注文し、湯豆腐と味噌汁を礼賛する。

珍しい嗜好の青い目がいるものだと感心しただけで、その日は別れた。

年が明けて、こちらから先方を訪ねた。

そのころ、芝・白金台にあったTM本部は、設備こそ十分とは言えなかったが、スタッフの対応は完璧だった。

寒い朝、受付の女性は、自分のはいているスリッパをぬいで、すすめてくれた。

澄み切った館内の空気とともに、ここに住む人たちの心根を、かいまみる思いがしたものである。

一日に2時間たらずの講義と演習、6日間続けて通った。

教えられたテクニックは、あまりにも簡単であった。

座禅を20年ちかくもやって精神の集中ができないのを嘆いているのにくらべて、まさに、月とスッポンの差といえよう。

実行に移って3日目に、目の前が明るくなった。

近眼鏡を初めてかけた時、見るものがすべて輪郭がはっきりし、色をあざやかに感ずる、あの体験と同じである。

フォローアップで集団瞑想の時、あちこちでオナラが出ていたのも特徴のひとつか。

人によって、現象はいろいろである。

自分の場合は、唾液がヨダレになり、腸がぐるぐると動きだす。

遠くでさえずる小鳥の声や、時計の秒をきざむ音が聞こえる。

全身がマヒして、呼吸もとまるように感ずるのに、副交感神経は、スムーズの働きをみせるようである。

2週間の瞑想で、5年も愛用していた老眼鏡が不要になった。

高血圧・肩こり・偏頭痛が改善された。

事件が起きた

文字を読み、書くことが本職の人間にとって、これほどありがたいことはないと、喜んでいた時、家で事件がおきた。

受験勉強をしていた息子がダウンしたのである。

秋の学園祭までクラブ活動にうちこんでいた彼は、新年になってあわてた。

暗記ものを軽蔑した報いで、成績はビリ。

現役での合格をあきらめかけていた。

共通一次ではかなりの点がとれたのを潮に、理科系の国立を志望するようになっていた。

ところが、一月の末になって、食事が喉を通らなくなってしまった。

流動食でももどしてしまう。

内科の医師は、勉強をやめるしかないという。

ワラにもすがる思いで白金台のセンターへ。

TMを教わって4日目には、普通食をたいらげた。

それから1ヶ月間、死に物狂いの追い込みをやった。

毎日、2回の瞑想はかかさずに。

本人の言葉を借りれば、ふだんにくらべ、5倍のスピードで頭にはいってくれたとか。

合格者名に出たローカル紙を片手に、高校の担任が、「奇跡だ、奇跡だ」と、職員室の中を駆け回ったのも、今ではTMにまつわる楽しい思い出となった。

瞑想が2年目にはいるころから、日常生活に別の変化が出てきた

まず、飢餓感からの解放である。

ビジネス街では、昼どきの食堂の混雑がすさまじい。

行列に並んんで食べなくてもと思った日から、昼をぬくことにした。

食べるかわりに、15分の瞑想を楽しむ。

その後は、2日間くらいの絶食を苦もなくやれるようになった。

晩酌とタバコの量が、半減してきた。

無類の肉好きが、玄米菜食を喜ぶようになったのをみて、

「怒らなくなっただけでなく、体質も変わってきたのですねえ」と、妻は言う。

風邪を断食と瞑想でなおすと言えば、現代医学からは、変な目で見られかねないが、事実だから仕方がない。

成人病の兆候もことごとく消え、まさに生まれ変わったような日々を送っている。

それにつけても、母国に帰って普及活動にはげむ、件のドイツ人との一期一会を感謝せずにおれない。

願わくば、TMが、科学的瞑想法として、日本の社会に根をおろしますように。

公園にも、お役所にも、企業にも、メディテーション・ルームのある世の中が、一日もはやく実現しますようにと祈る。