
聖徳太子 二歳像 奈良・法隆寺蔵
前ブログからの続き
彼此俱に亡ぜば、山として入るべきことなく、世として避くべきことなし
ユートピア誌編集部 そうだったのすか。
このように時代の背景をお聞きしてきますと、日本人にとって聖徳太子は誠に偉大な存在であったことがうなずけますね。
瀧藤尊教先生 はい。
しかもそのご治世がいかに卓絶していたかがうかがわれるのは、593年に摂政皇太子に就かれてから、49歳で亡くなるまでの30年間、歴史をいくらひも解いても、争い、内乱のたぐいが一切見つからないのです。
ユートピア誌編集部 ほほう。それはまた素晴らしいことですね。
敵の発生を見ない。
これこそまさに無敵性ですね。
瀧藤尊教先生 そうですな。
蘇我馬子あたりも聖徳太子の政治には一目おいていたようです。
その他にも聖徳太子は、日本の社会福祉事業の創始者でもあるのです。
四天王寺自体が、四天王(持国天王・増長天王・広目天王・多聞天王)を祀って外国からの敵の侵入を防ぐという意味もあったのですが、むしろ社会福祉の施設としての役割がとても大きいのです。
ユートピア誌編集部 ほほう。

四天王寺 徳川時代
瀧藤尊教先生 四天王寺というのは四ヶ院から成り立っているのです。
つまり孤児・未亡人・老人などの身寄りのない人のために悲田院(ひでんいん)、犯罪をおかしたりする人をなくすための修業・戒律の場である敬田院(きょうでんいん)、病に苦しむ人のためには療病院(りょうびょういん)、さらにまた薬を必要とする人のために施薬院(せやくいん)があり、四天王寺、すなわち四ヶ院なのです。
ユートピア誌編集部 なるほど。
実際にそこで人々を救済していたのですね。
真に偉大な方のお仕事というのは、単に一つの目的のためにするのではなくて、その背後には多くの目的、大義を備えているものなのですね。
瀧藤尊教先生 そうです。
しかも聖徳太子のご政治には、随所に経典の内容が含まれ、実際に生かされているのです。
ですから、太子のご偉業というものは、常人からはちょっと想像もできないような、スケールの大きい、そして深みのある営みがなされていたわけです。
思ってみれば、今でこそ、病院があり、薬局があるといっても、あの当時などは、病気になれば、かかり損、弱い者が死んでゆくだけの時代です。
薬もなければ、治療法もなかったそのときに、聖徳太子が病院を建て、薬を与える施薬院というのを作られたわけで、これ一つをとってみても、国民福祉のための大事業だったと思うのですが、それらをすべて国家政治の中に生かしておられるわけですね。
ユートピア誌編集部 お聞きすればするほど、太子の国政に対するなみなみならぬ情熱を感じるわけですが、いったいどこからその活力が出てきているのでしょうか。

法隆寺 夢殿
瀧藤尊教先生 太子が摂政皇太子に就かれたのが二十歳ですから、最も多感なころであったと思います。
そのころに、血の通いあった兄弟親戚が次々と暗殺されてゆき、骨肉相食む人間のあさましい迷妄の相を目の当たりにされたわけですから、そんな実体験の中から太子のご信念が生まれ出てきたのではないかと思います。
とにかく内治に外交に想像を絶する危機の時代だったので、それだけに聖徳太子は悩み、苦しんだようです。
太子の維摩経義疏(ゆいましょうぎしょ)(聖徳太子は《法華経》《維摩(ゆいま)経義疏》《勝鬘(しょうまん)経》の三経典について注釈書を作った。
それは《法華経義疏(ぎしょ)三巻、《維摩経義疏》四巻《勝鬘経義疏》一巻として今に伝わる)の初めに「国家の事業を煩(わずら)いとなす。
但し大悲(だいひ)息(や)むことなく志(こころざし)益物(やくもつ)に存す」とあるのです。
国家の事業は誠に大変ではあるけれども、非常に大きな人々の苦しみを抜かずにはおれないんだと言って政務に当たられたのです。
そのために夢殿をお造りになられ、何か、国政が困難を極めると、夢殿におこもりになって、二日、三日と食事も断って出てこられなかったそうです。
これは、言わば瞑想をしておられたわけです。
それがしょっちゅうあったようです。
そこで瞑想をされ、新たな気持ちになってお出ましになり政務を担当されたのです。
ユートピア誌編集部 そうでしたか。
特に何か具体的な瞑想法というものは、記録に残されているのでしょうか。
瀧藤尊教先生 瞑想の内容に関してはあまり書かれていませんなあ。
ただ、夢殿の中で経典を翻訳しておられて、何か不明な点があると、白馬にまたがって中国までそれを調べに行かれたと伝説に残っているのです。
仏教が日本に入ってまだ間がなく(当時、仏教は日本に渡来して数十年たったばかりで、一部で信仰されていたに過ぎない)参考文献も少なかった時代に、よくこれだけ優れた注釈書をお書きになったと驚嘆するわけです。
注釈書の初めに、「是は是れ、海の彼方の本に非ず」つまり、これは日本の作品であって、外国のものではないのだと宣言してはるんですね。
日本の国家の威厳性をしっかりと保った上で、誠に独創性のある、卓絶した解釈がなされているのです。
それがどれほど優れていたかがわかるのは、太子がお書きになった注釈書が、逆に中国に渡って、中国のお坊さんたちの参考書として、又、翻訳され、今に残っているのです。
ですから聖徳太子には、何かそこに超越的な在りようがあり、瞑想によって獲得された能力を駆使しておられたのではないかと私は見ているのです。
ユートピア誌編集部 マハリシは、瞑想をして純粋意識を体験すると、そこはすべての自然法則があり、あらゆる知識の家であるので、その場を十分開発して行動しさえすれば、あらゆることが自然法則にのっとった形で、まったく抵抗なく成し遂げられるとおっしゃっています。
太子ほどの偉大な方が瞑想されて、内側の純粋意識を開発し、国政に生かされていたというのは誠に素晴らしいことですね。
瀧藤尊教先生 はい、しかも太子は隠遁生活をはっきりと否定しておられるのです。
「山林に住すといえども心散乱すれば、なんぞ宴座(えんざ)を修せんや」
山の中に住んでいても心を乱していたら、何の意味もないんだ、と言うわけです。
さらに「彼此(きし)倶(とも)に亡ぜば、山として入るべきことなく、世として避くべきことなし」という注釈を書いているのです。
あれやこれやの分別智というものを完全に無しにした状態になれば、山に入る必要もなければ、世を避ける必要もないのだ、と教えてくださるのです。
聖徳太子の時代以前には、そのような精神思想史というのが無かったから、正に日本の精神文化の黎明期といえば、この飛鳥からであると思うのです。
ですから考えてみれば、日本文化というものは、聖徳太子によって見事にスタートされたと言えるのではないでしょうか。
ユートピア誌編集部 そうですか瀧藤先生、今日は本当に貴重なお話し、ありがとうございました。
敬田院のありようを今に伝える四天王寺学園のますますのご発展をお祈り申し上げたいと思います。(終わり)
(語り手)
四天王寺学園元校長
瀧藤尊教 先生
(聞き手)
マハリシ総合教育研究所 当時の大阪センター室長
〈学校法人 四天王寺学園〉ホームページhttps://www.shitennoji.ac.jp/より
1986年当時、校長の瀧藤先生ほか、数十人の生徒がTMを始めた。