一休禅師木像(酬恩庵蔵)最晩年87歳、亡くなる前年に、自らの髪の毛と髭を抜いて植えつけて造られたといわれている。

応仁の乱の前の飢饉のときでさえ、京都の餓死者8万人以上と記録に残されています。

桓武天皇が794(延暦13)年に長岡京から遷都したときの平安京の人口はわずか10万人。

戦国時代の男子の平均寿命は37歳位だったそうです。

一休宗純72歳になったころ応仁の乱が勃発し、乱が終息して焼野原からの大徳寺再興時の年齢は81歳と言われています。

驚くべき生命力と胆力、さらに人望があったことが推測できます。

三代将軍家光の時代から、その後の激動の時代の最中にあっても、人の世の無常を達観し既定の宗教をも否定するような人生を歩みながらも、最後は寺の復興に尽力する生き方の奥に重みを感じざるを得ません。

 

一休宗純の幼名は千菊丸です。

皇室の血をひく方であることがわかるよう、この幼名を授かってこられたのでしょう。

幼少時から大いに才能にあふれ、その存在は600年以上たった現代までも「とんちの一休さん」の名で言い伝えられています。

そんな一休さんですが21歳の時に師匠の死を経験し、洛中から大津市の石山寺に籠る中、入水自殺を試みるも制止されたと記録に残っています。

世をはかなみ、いったん終わりにしようと考えたのでしょうか。

一休の名は、石山寺から瑞祥寺に居を移して1年ほど経った頃「有漏路より無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と、師匠の華叟宗曇(かそうそうどん)からの考案に答えたことで与えられた道号と記録されています。

この世の生は、無漏路に至る一休みのなのだと言い切った年齢は、応仁の乱の50年も前のことだったのですね。

瑞祥寺での修行中、季節は夏から秋に移り、朝暗いうちからの作務、そして禅定の凛とした時間を楽しんだ後の爽やかな空気のなかでほっと一息ついたときに詠んだ句が「朝茶飲む 僧静かなり 菊の花」です。

千菊丸の名にオーバーラップします。

これから後は世の中がどのように変化しても心が乱れることはなかったのかもしれません。

世界ではコロナの狂騒はすでに終わりにして、経済、流通、通信の混乱へと導こうとしていると言われています。

出来得るなら、たくさんの人々の苦しみを見たくないのですが、そのような時代を経たのち、光明の時が来るのでしょうか。

もっと早く、時代の転換をスムーズにできる瞑想者人数を増やしたかったのですが、今からでも遅くはないのかもしれません。

それまで、規則的に瞑想をして私にできることをしていこうと思っております。