月間ユートピア インタビュー記事より(1986年)

 

四天王寺学園校長時代の     故瀧藤尊教猊下

以下、瀧藤尊教猊下が四天王寺学園校長先生をなさっていた当時のインタビュー記事です。

日出ずるところの天子

ユートピア誌編集部 瀧藤先生、2月11日は建国記念日ということもありまして、今日は聖徳太子についてお聞きしたいのですが、一般に日本人は、聖徳太子のお顔はお札(さつ)で知っているわけですけれども、ではどういうお方なのかとなりますと、意外に知らないですね。

 

瀧藤先生 そのようですなあ。

 

ユートピア誌編集部 私が子供の頃に聞いたのは、十人くらいの方の話を同時に聞いて、それを同時に処理していく素晴らしい能力のあった方であるということです。

また十七条憲法の「和を以て貴しと為す」という言葉で、日本文化の特徴になっている調和を重んじるというような点で、日本文化の先駆的な代表者であるという印象はあるのですが、実際には、どのようなお方だったのでしょうか。

 

瀧藤先生 聖徳太子について理解するためには、太子が、摂政皇太子に就かれる以前の国内情勢を知らなければならないと思います。

飛鳥時代というのは、暗殺問題が横行していて、氏族が勢力争いに明け暮れていた時代なのです。

経済的には困窮を極め、巷には餓死者が累々とあふれていたそうです。

 

また思想的には、新旧の思想が入り乱れ、混乱していた。

つまり、従来の神道に対し、新しく入って来た仏教との間に対立が起こり、争いが一段と激化したところに、さらに拍車をかけたのが皇位継承の問題だったのです。

当時の氏族の二大勢力は曽我氏と物部氏であり、曽我氏は仏教を率先して受容し、物部氏はこれに真っ向から反対した。

そこに用明天皇崩御によって湧きおこった問題が、皇位継承である。

物部氏は、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を奉じようと図り、対立候補であった曽我氏の奉ずる泊瀬部皇子(はせべのみこ)を殺害しようとしたが、曽我馬子は、その計画を未然に察知し、逆に穴穂部皇子と宅部皇子(たかべのみこ)を暗殺した。

このため物部氏と曽我氏の対決戦が行われ、激戦の結果、物部氏は敗れ去る。

かくて泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位するが、その五年後、593年には、蘇我馬子の命により、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が天皇を殺害するという大逆事件が起き、推古天皇が女帝として即位する。

そのため聖徳太子が摂政皇太子として政務を担当することになるのである。

このとき、太子御歳二十歳であった。

 

ユートピア誌編集部 その混乱の時代に対処されておられたのが聖徳太子であったわけですね。

 

瀧藤先生 はい。

しかもそれだけでなく、その時代は非常な外交的危機の時代でもあったのです。

というのも、それまで南北朝で争いを続けていた中国が統一して隋帝を形づくったのです。

国内が統一されると、当然内乱がないから、次に眼が向くのは外攻となるのは歴史の示すところです。

ましてや、中華思想の東夷(とうい)・南蛮(なんばん)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)、自国のみが尊しとして、他国は全部属国であるといった考え方からして、当然、三韓(高句麗・百済・新羅)をおかして日本に侵入してくるに違いないとお考えになったわけです。

現に隋皇帝即位の年に、30万の軍隊が、第一回高句麗遠征をしているのです。

しかし幸か不幸か、この時は隋の軍隊の中に疫病が流行し、しかも高句麗の抵抗も強く、侵入できなかったのですが。

 

それまでの日本は百済を応援して、高句麗や新羅としょっちゅう戦争しておったわけですが、高句麗も隋に侵入されたらかなわんということで、このとき日本に朝貢してきて攻守同盟を結ぼうとしたのです。

聖徳太子は、そのとき即座にそれに応じて、高句麗とみごと国交が回復したのです。

当時百済、新羅の軍というのはあまり強くなかったので、なんとしても高句麗で食い止めたい、というのが聖徳太子の外交方針ではなかったかとおもいます。

 

さらに聖徳太子は二重の安全のために同時に対隋外交もお考えになったのです。

ところが日本の文物制度が不十分なときに、隋に使節を派遣してもばかにされるだけですから、593年のご即位と同時に、外国からの使節を迎えるに十分な、分化の薫り高い七堂伽藍(しちどうがらん)を配置した四天王寺を建立されると同時に、着々と文物制度を整えられて、603年には官位の十二階(大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智)を制定されたのです。

 

私どもが子どもの頃には、官位の十二階を、単に”人材登用のため”と教わっているのですが、これはそんな単純なものではなくて、外交使節を派遣するためには必要不可欠の肩書だったのではないかと思われるのです。

そして又、604年には、十七条憲法を発布されて、日本の国内の体制をいよいよ固められたのです。

 

このように準備万端を整え終わって「よし!」というわけで小野妹子を遣隋使として派遣されたんですな。

このとき冠位十二階の大礼という位を与えて小野妹子を隋に派遣されたのは、単に文化の交流というだけでなく、対等の立場を堅持するとともに一種の諜報的役割も兼ねていたわけです。

というのも、隋の第一回高句麗征伐は疫病がはやって失敗しているので、近いうちに当然に第二回の遠征があるだろうと聖徳太子はにらんでいたのです。

 

案の定、当時の隋は第二回高句麗征伐のために、実に113万の軍隊を用意し、街中が兵隊であふあれんばかりであったそうです。

そこに、あの有名な国書を携えて小野妹子をお遣わしになったのです。

 

「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す。故に遣わして朝拝せしむ」

つまり、あたなは仏法を崇拝する大王であるので、使者を遣わします、と非常におだてておいて、かつ、対等の言動を用いて

「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す、恙無きや」

とやったわけで、それを見た隋帝は烈火のごとく怒ってそれを打ち破ったと記録に残っているそうです。

ところが隋は高句麗遠征の直前でありますので、そんなときに日本と戦争などしたら分が悪いということで隋皇帝の側近が戒めて、とにかく時をかせぐために裴世清(はいせいせい)を隋使として日本に派遣されたというのが真実のようです。

そのときに迎賓館の役割をいたしますのが四天王寺でありまして、飾り船45隻と日本書紀にありますが、満艦飾をほどこした船で大歓迎をし、四天王寺で舞楽を演じて旅の疲れをいやして、日本の文化性をいよいよ誇示した後に、飛鳥の都へ出発されたのです。

(この時代に、聖徳太子の政策によって建築・彫刻の技法に画期的な進歩が見られた他、天文、地理、大楯、絵画、紙、墨、薬猟、伎楽舞および歴史の編纂が始まった)

そのときも飾り馬75頭で麗々しく送迎し、しかる後にうやうやしい謁見がかなえられるわけで、このようにして日本は高い文化性を持っていますぞと、帰国した裴世清に伝えさせることによって、始めて対等外交が確立されたのです。

ですから、そのように誠に多事多難な時代に直面して、まさに日本の精神文化の黎明期を創始されたのが聖徳太子であると思うのです。

続く