転害門

法隆寺山内。筆者撮影

秋の季節になると、なぜか奈良に行きたくなります。

明日香や斑鳩の穏やかで優しい広く高い空。きっといにしえの人たちも同じ空と甍を眺めながら、おなじ土を踏みしめていたとお想うと感慨もひとしおです。

平成7年に西岡常一棟梁が亡くなられてしばらくの間は、法隆寺の門前に棟梁の使っていた大工道具が展示してありました。

それを見つけた私は飽くことなく眺めていたものですが、しばらくして展示されなくなってしまい残念ではあるのですが、仕方ありません。

 

超越瞑想のマントラとその使い方と同じく、西岡家に代々伝わる口伝は一度しか口移しで教えることができない秘中の教えです。

西岡棟梁はその宮大工口伝の生証人でした。

本に残してくださいましたが、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーと同じく、言い伝えと意味をテープに吹き込み、録音を筆写して出版されている著書からは、字間や行間から生身の響きをもって語られた宮大工の息吹を感じ取ることができます。

西岡家口伝

    • 神仏を崇めず仏法を賛仰せずして伽藍社頭を口にすべからず。
    • 伽藍造営には四神相應の地を選べ。
    • 堂塔の建立には木を買はず山を買へ。
    • 木は生育の方位のままに使へ。
    • 堂塔の木組は木の癖組。
    • 木の癖組は工人たちの心組。
    • 工人等の心根は匠長が工人への思やり。
    • 百工あれば百念あり。一つに統ぶるが匠長が裁量也。
    • 百論一つに止まるを正とや云う也。
    • 一つに止めるの器量なきは謹み惧れ匠長の座を去れ。
    • 諸々の技法は一日にして成らず。祖神の徳恵也。
転害門

「転害門」南西の柱

京都から国道24号線を南に下り、奈良市役所方面から奈良公園、春日大社方面に向かって東に進むと、県庁を過ぎ国立博物館前に出ます。左折して北へ向かうと奈良正倉院から西の伸びる東大寺の北西角に「転害門」交差点があります。

なぜ、私が転害門に興味を持ったかと言うと、西岡常一棟梁の唯一の内弟子で、鵤工舎創設者である小川三夫棟梁が、仕事に行き詰まったとき、ひとり転害門に行くと、昔 耳にしたからです。

明日香の工人たちは、東大寺の大仏をつくり、それを覆う東大寺金堂「大仏殿」を造りあげたのですが、現存する大仏殿は2度の戦乱や罹災などで焼失し、後に再建されたものです。現存する建物のオリジナルは今の大きさより二まわりも大きかったといいます。その創作のエネルギーたるや、想像を超えるものがあります。

しかしながら、転害門(国宝)は1300年前から今とまったく同じ姿で立ちづづけているのです。ですから、小川三夫棟梁が、当時の工人の息吹を一番感じ取ることができるのが、この「転害門」なのだと思うのです。

西岡家の口伝のうち

  • 木は生育の方位のままに使へ。
  • 堂塔の木組は木の癖組。
  • 木の癖組は工人たちの心組。
  • 工人等の心根は匠長が工人への思やり。

があります。

転害門の南西の柱のうち、この柱のみ、節だらけでごつごつしていて、威容を放ちます。

見るとわかるのですが、南面にふしが集中し、口伝通りに造られています。

いったいこの建物をどれほどのスピードでつくりあげたのでしょうか。そしてこの一本だけ、あえて表面を削らずに残したのはなぜなのでしょうか。

国宝『転害門』。名のいわれは諸説ありますが、私はこの、「害を転ずる門」がぴったりだと思います。

竹内結子さんの訃報が伝えられましたが、後世の人たちが人生を見つめなおすために、この国宝を自然が残したのではないか、と私には思われるのです。