ディヤーナとは「心」と「存在」との間にある生命の領域である
京都の寺社仏閣の数は1600を超えるそうです。
なかでも禅寺は、武士による寄進で建立されました。
自力本願、他者に頼らず己を頼りに研鑽するためには、武士は禅宗だったわけです。
もともと禅という言葉は、ヨーガに由来し、
ディヤーナが中国にわたりチャン(シャン)
そして日本に禅(禅那)として伝えられました。
篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。
赤字部分がマハリシの解釈です。
buddham saranam gacchAmi
ブッダム・サラナム・ガッチャーミ
ブッダ=知識・智慧。すべての宇宙の知識のある場=統一場へと行きなさい。
dhammam saranam gacchAmi
ダンマム・サラナム・ガッチャーミ
ダンマ・ダルマ=すべての自然の諸法則Laws of Natureの集まっている源Total Natural Lawの場=統一場へと行きなさい。
sangham saranam gacchAmi
サンガム・サラナム・ガッチャーミ
すべてのが統一されている場、=統一場へと行きなさい。
「篤く三宝を敬え」の原文は三帰依文ですが、マハリシは三寶 (tri-ratna トリラトナ)の場へ、行きなさい(ガッチャーミ)。
つまり意識の統一場に行きなさい、と解説したのでした。
三門を通るとは超越意識の体験である。
仏殿、法堂、方丈へと進む前に、三門がそびえます。
春秋等の特別拝観中には三門へと上がるチャンスがあります。
そこには絢爛豪華な仏の世界が展開していて、信仰の深さを体験できるものですが、
京都の禅寺の伽藍配置を7つの意識状態への進化の観点からみると、とても興味深いものがあります。
総門をくぐると、まず池があります。
放生池です。
宗派により、放生池、心字池、阿字池、鏡湖池、など名称は違えどすべて意識の海を表すと考えられます。
意識の海には橋が架けられ、三門に向かうのですが、
その前に、万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、自然対しに感謝(放生)を表します。
放生はアシターンガヨーガの一番目ヤマに属するのだと思います。
TM瞑想中は、意識的に何かを解き放つとか、操作することはいたしません。
図示すると下図のようになるでしょうか。
セトゥーン・スタラというサンスクリット語があります。
「そこを通って・橋渡しをして」という意味をもちます。
下図のように、より高い意識状態に進化するには、まず、意識を第四の意識である超越意識に確実に開くことが進化のために、最も早く、最も安定し、確実な方法です。
長い間、サマーディー(三昧)を体験することは困難と考えれてきましたが、
瞬間的なサマーディー(クシャニカ・サマーディー・刹那三昧)を体験することは、
超越瞑想によって誰でも簡単にできます。
さらに、超越意識と日常の眠り、夢、目覚めの体験を繰り返すことで、
黄色い布に染料が染み込むがごとく、やがて活動中に純粋意識が維持される宇宙意識(ニッティア・サマーディー・恒常三昧)へと進化して行きます。
超越瞑想中の純粋意識の体験は空であり、無相であり、無願です。
サンスクリット語の「śaraṇa शरण」パーリ語の「saraṇa」は、保護所・避難所という意味だと言われます。
超越瞑想を実践すると、心は内深くに入っていき、意識の拡大を経験します。(空・無相=むしょう)
そして、やがて、完全に静寂で、枠のない意識の状態へと至ります。(空・無相=むしょう)
これが超越意識(純粋意識)の体験です。
この状態は、安らいでいながらも、心ははっきりと目覚めていて、機敏さを保っていますが、想念はありません。(無願・むげん。願求の意識を超えています)
また、純粋意識は、至福、創造性、エネルギーの源であるので、純粋意識を経験するとき、心は、至福、創造性、エネルギーに満たされます。
あらゆる外圧から解放された場です(サマーディー・三昧、解脱)
そこにもあり、そしてここにもあるそこを通し、真理の道に進んでいきましょう。
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デジタル大辞泉によると三解脱門について次のように記されています。
一切を空と観ずる空解脱、一切に差別相のないことを観ずる無相解脱、その上でさらに願求(がんぐ)の念を捨てる無願解脱。