3月6日から映画「Fukushima50」の上映が始まりました。

3月3日の虎ノ門ニュースで原作者門田隆将氏(死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発 角川文庫)が映画を紹介しておりましので、

封切り後すぐにでも観たいと思いましたが、時節柄、私はまだ映画館に足を運べておりませんが必ず見たいと思います。

映画の作り方として、一般的には、緊張や恐怖とホッとする映像と緩急をつけるところ、この映画は最初から息つく暇もない緊張の連続で描かれているのだそうです。

 

『Fukushima50』という呼び方は、外国人が使い始めた言葉なのだと、門田氏が解説していました。

「なぜ日本人は逃げずに現場に残ったのか」

これが、海外の人から福島第一原発の職員たちを見て、理解することができない最大の点だったのだそうです。

門田さんが、1年半にわたり、じつに綿密に関係者から聞き取りをして書かれた小説で、後世にとって極めて貴重な記録となるでしょう。

たま、巨額をかけて現場とまったく同じセットを再現しての撮影、さらに自衛隊木更津駐屯地、米軍横田基地の全面的協力のもとつくられていますので、

映画館で観たら臨場感たるやすさまじいものがあるのだと思います。

 

映画の中で、菅直人元総理と思しき佐野史郎さん演じる人物が登場します。

たしかに、菅直人元総理は現場を混乱させたことは間違いないように私も思います。

しかし、Yahoo!の記事で、菅直人氏に近い方から、映画とはすこし異なる事情が紹介されていましたので、こちらも紹介させていただきます。

映画『Fukushima 50』はなぜこんな「事実の加工」をしたのか?

菅直人元首相をよく知る私には、この映画の「総理」は、「全然、菅さんに似ていない。まるで別人」に見えた。

 顔が似ているとか似ていないではない。雰囲気がまったく違う。

 私も何度か菅元首相に怒られたことがあるが、たとえ激高していても、もっと理路整然としており、感情にまかせてわめきたてることはしない(だから、余計、怖いのではあるが)。―中略―

描かれなかった総理側の事情
 

 ―中略―

 映画では、準備が整い決行しようと思ったところに、東電本店から「総理がそっちへ行くので、それまでベントを待て」と言われ、できなくなったことになっている。吉田所長の感覚としてはそうだったのかもしれない。

 だが、菅首相としては「午前3時にベントをする」と伝えられていたのに、3時を過ぎても「遅れていること」も、「遅れている理由も」も知らされない状態だったので、「行くしかない」となったのだ。

 その首相側の事情は描かれていない。

 12日午後、一号機が爆発する。映画では、首相は官邸の危機管理センターにいて、そのモニターでリアルタイムで知ったかのように描かれている。

 しかし実際はこういう経緯だ。

 爆発は15時36分。菅首相は15時から与野党の党首会談に出席し、16時過ぎに終わった。

 執務室に戻ると、危機管理監から「福島第一原発で爆発音がした。煙も出ている」との報告を受けたが、管理監も「詳しいことは分からない」と言う。しばらくして、白煙が上がっているらしいとの情報も入る。

 そこで東電から派遣されている武黒フェローを呼んで訊くと、「そんな話は聞いていません」との答え。武黒フェローは「本店に電話してみます」と言って問い合わせたが、「そんな話は聞いていないということです」と言う。

 菅首相は原子力安全委員会の斑目委員長に「どういう事態が考えられますか」と質問し、委員長が「揮発性のものがなにか燃えているのでは」と答えたとき、秘書官が飛び込んできて、「テレビを見てください」と言う。

 テレビをつけると、日本テレビが、第一原発が爆発しているのを映していた。

 実際に爆発してから1時間が経過しており、その間、東電からは何の報告もなく、首相は、一般の国民と同時刻に、テレビで知ったのである。

 東電の本店と福島第一原発はモニターでつながっているので、本店はリアルタイムに知っていたはずだが、それを伝えなかった。問い合わせにも「聞いていない」と答えた。

 そういう東電本店のお粗末さが、この映画では描かれない。

 「すべてを描くことはできないから、省略することもある」のは、事実に即した映画にもよくあることだ。だから批判はしないが、実際はこうだったと確認しておきたい。

とあります。

アーユル・ヴェーダ的に見れは、菅直人氏の体質はカパ・ピッタだと思われます。

普段は、カパ的で柔和な人柄のほうが前面に出ているの違いありません。

東日本が壊滅する危機的状況から、ヴァータが極度に乱れ、ピッタが爆発して冷静な判断ができなくなっていたのだと思います。

そのようなときでも、本人をよく知る人から見ると、怒っていても、ヴァータ的に、ハチャメチャに乱れることはなく

「もっと理路整然としており、感情にまかせてわめきたてることはしない」

という表現は正しいように思われます。

そして、私は日本人として、東電本店のお粗末さも、正確に記録に残す必要があるように思っております。