『知足の蹲(つくばい)』

世界遺産である竜安寺の庫裏玄関を入り、左に進むと石庭が静かに訪れる人々を迎えてくれます。

時には人が途切れ、静かに縁に腰を下ろし、しばしぼーっと贅沢な時間を楽しむことが出来ます。

私はこの庭の壁が好きです。遠近法をたくみに取り入れ、年つきを重ね落ち着いた色あいの土壁があってこそ、白砂に苔石との対比を一つの空間に包み込み、静寂をよりゆたかに感じさせることができるのだと思います。

縁(えん)での瞑想で少し下肢(あし)が痛くなったころ、ゆっくり伸ばしておもむろに立ち上がり、方丈の裏手へと進みます。そこにはいつでも『知足の蹲(つくばい)』が佇んでいます。今でも傍らに侘助椿の木はあるのでしょうか。

 

知足の由来のひとつは、老子 第三十三章。

原文は

「知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽です。

最後の「死して而(しか)も亡びざる者は寿(いのちなが)し」の部分を読めば、弘法大師空海「秘蔵宝論」(ひぞうほうやく)序論の末尾にある、

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、

死に死に死に死んで死の終りに冥(あかる)し

と同じく、意識の不滅をしっかり認識した状態を表現した句だと思いますし、ヴェーダによる意識の7つの分類にある第5意識以上であったことは間違いないと思います。(もちろん私はお二人とも第七の意識状態まで達した聖人だと理解しています)

https://maharishi-kyoto.jp/charge37/ 参照

知識は意識の中に築かれる

知識は意識の中に築かれるものであり、これはとりもなおさず、異なる意識状態により知識は異なることを示します。

 

虎に襲われている夢を見ている人を、現実の鉄砲をもってきて、その人の夢の中の虎を退治してあげることはできません。

通常の意識状態からの解説では、知足とは「己の分をわきまえて、それ以上を求めないこと。分相応のところで満足すること。」の解釈は正しいです。

 

ですが、悟りの時代に入りつつある今、老子は第三章

知足者富  死而不亡者壽

の解釈は『プールナ(満ちて満ちて満ちあふれる時空を超えた永遠の至福)=足(充足して満ち満ちている)の状態を現実に生きている者は、意識富(ゆたか)で、光のなかに永遠の生命を生き、滅びることなく永遠の生命を生きる』という解説を付記し始めても良いように思います。