1988年8月、私は椎間板ヘルニアの再発で、緊急入院した。

飛び出した7センチ(L5,S1間)の椎間板ヘルニアは脊髄を圧迫し排便排尿感覚もほとんどなくなっていた。

医師の説明では、金属を入れて固定する手術をしなければならくなるだろうという。

なぜなら、私は25歳(1977年)の時、椎弓を削り、脊髄と椎間板の癒着部を切り離す(L4.L5間)大手術をしており、背骨の強度を維持するためのようだった。

金属で保定することを望まなかった私は、ディーパック・チョプラ氏に連絡をとった。チョプラ医師とは、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの滞在するマハリシ・ナガールで何度も顔を合わせていただからである。

チョプラ氏はすぐさまマハリシの秘書であるナンドキショー博士に連絡をとり、マハリシは私のインド受け入れをOKしてくれた。

かくして約8か月間という長期にわたり、私はマハリシ組織のTM教師としては世界で二人に該当する長期間のパンチャカルマを体験することになったのである。しかも無料であった。

 

ベルリンの壁が崩壊し、昭和天皇が崩御して30年

今振り返ると、私のインド滞在の本当の意味が分かるような気がするのである。

その年の9月中旬、私はほぼ感覚のない左足ではあるが、かろうじて体重は支えられ、そろり、そろりと歩ける状態まで回復していた。

荷物を最小にし、私は空港に向かった。出発時刻の成田空港はバケツをひっくり返したような大雨で、飛行機は待機させられている間、今 自分が巨大な時の変化のなかに入っていくのを静かに目撃しているような感覚に包まれていた。

マハリシ・ナガールではペンタゴンC(五角形に囲まれた建物)に滞在した。ペンタゴンCはプルシャの滞在施設である。

ナガールとはヒンディー語で「村」を意味する。そのころのマハリシ・ナガールはパンディットの少年約4,000人を、統一場からヴェーダの吟唱ができるように訓練中で、朝5時から晩の9時まで瞑想と食事時間以外は一日中ヴェーダの吟唱が聞こえる環境だった。

私は私の腰のトリートメント時間以外は、ほとんど毎日ホールでの詠唱を聞きながら過ごした。そのため、帰国するころには長短6.7編のヴェーダの吟唱を覚えるほどにまでなった。

村にはインド人スタッフの他、西洋人で当時の滞在者はドイツ人を中心としたプルシャ20人ほどで、そこに日本人の私と小山夫妻、楡井康郎がインターバルで滞在していた。

その年、私に届いた日本のニュースは、鈴木大地氏がオリンピック水泳で金メダルを取った新聞と、そしてなにより大きなニュース、年末の昭和天皇の崩御を伝える新聞だけであった。インターネットが一般に普及したのは、日本でもその5年後くらいからである。

マハリシ・ナガールでの瞑想を3か月ほど続けると、私は一日中目醒めて23時間至福に包まれるようになっていた。が、朝の1時間ほどだけ、ぼやけた意識(現在の私のめざめの意識)に包まれるのだだった。とにかく特別な環境だった。

頭は一日中冴えわたり、記事を読めば一行ごとに膨大な知識が入り、そればかりか字間や空白の行間からもあふれんばかりの情報が飛び出してくるのを目撃するように読めるのであった。

新聞には全面記述で大正天皇の歴史も記載されていた。私はそれまで天皇家にほとんど興味がなかったが、そのときはじめて日本の天皇家の歴史を学んだ気がした。

大正天皇は側室を持たなかった。天皇の仕事のひとつは、皇子をのこすことにある。大正天皇の皇子は、裕仁天皇、秩父宮様、高松宮様、三笠宮様であるが、5歳にして里子の出されたと伝わっている方がいることを私は聞いていた。が、その真偽を確認するすべはないと思われる。

京都大学に在学した大辻桃源という方が存在した。ここでは、詳述できないが、私は天皇家の血筋のすばらしさを、大辻桃源氏と接することから感じ取った。現在、大辻桃源先生の記述は、ホームページで検索してもほぼ皆無であるが、私は、大辻桃源先生を小田原の自宅から東京のホテルオークラでのナンドキショー博士の対談のために三日間連続で車で送迎させていただいたときの経験から、天皇家のたぐいまれな能力を実感したのである。桃源先生が御付きの男性の言う通り、昭和天皇の弟君であられたとしたらというあくまで仮定であるが。

ダルシャンの意味

ダルシャンの話に戻そう。

ダルシャンとは一般に、インドの聖人と面会することをさして使われる言葉であるが、「ディシ」とは「見る」という言葉から派生した言葉であり、本来は聖人が他を見る、つまり統一意識から、対象物(人を含め)を自分自身として認識する過程がとても大切なのだと思っている。

マハリシは、マハリシナガールに一人以上の日本人を必ず滞在させた。当時のマハリシ総合教育研究所代表の小山克明と妻のめぐみ、楡井康郎、そして井岡治彦と私は交互に滞在員(日本代表代理)としてインドコースの後などに、マハリシナガールに滞在させられた。

ニューデリー郊外は、冬季は零度まで気温が下がり、夏は40度を優に超える環境で、一日に何回も停電し、もちろんエアコンもなく、

トイレには便器すらもなく、シャワーと塩ビの配管がトイレの代わりをするような部屋が多かったペンタゴンCで過ごすことは、結構忍耐がいるものであるが、

それでも、ヒマラヤから多くの聖人がマハリシを訪ねて降りて来られ、

また、インド厚生省の顧問で薬草学の大家バルラジ・マハリシ先生や

インド初代アーユル・ヴェーダ協会会長トリグナ先生、

そして知識の継承者ディベジ先生を始め、

マハリシの兄弟子であったサッチナンダ先生等、

そうそうたる方々が滞在されていたマハリシナガールに連続8か月も滞在できたことは、私の人生の最大の宝物である。

さらに、私の注意は24時間マハリシに向いていたが、それよりはるかに重要なポイントは、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーという存在が、

私という点の価値を通して、日本の国体に回向(えこう)を送り続け、日本という国の大きな転換点をスムーズに変換できるようにしてくれたいたのだと、30年たってより強く感じるようになってきた。

令和の天皇のパレードが開催される今日、今後の日本の30年間が平和で包まれ、これから来るであろう大きな時の変化をスムーズに乗り越えらえるよう祈るばかりである。

さらに申せば、天皇のお仕事は国民の安寧を祈る祭祀が本来のお仕事であると思うので、一般行事参加負担を軽減し、祭祀への時間に十分に割けるようになさっていただきたいと望んでいます。

Jai Guru Dev  川井悠央